『夜をこえて、私になる』
第一章 秘密の夜
目が覚めた瞬間、少しだけ冷たい感触が臀部を這った。
春のはずなのに、毛布の中だけが妙に湿っていた。いつものいやな予感がして、布団をめくる。思ったとおりだった。シーツは濡れていない。かわりに布団の中は湿った匂いが広がっていた。そしてパジャマも濡れていなかった。なぜなら代わりに、かさかさと音を立てるあれを股に当てて寝ているからだ。
「……またか」
沙希は天井を見上げて、ため息をついた。
高校二年の春。誰よりも普通になりたかったのに、自分だけが「夜」に取り残されている気がしてならなかった。
* * *
数週間前、母に言われた。
「もう、夜だけでも履いてみない? おむつ。病院の先生も、それが一番ストレスにならないって――」
そのときは全力で反発した。高校生になってまでおむつなんて、冗談じゃない。
けれど、失敗が続いて、シーツを洗うたびに母が疲れた顔をするのを見て、結局は受け入れるしかなかった。母が薬局で買ってきたのは、やさしい柄の入った白いパッドと、やわらかな紙おむつだった。
「沙希は悪くないのよ。ただ、ちょっと体が目を覚ますのが遅れてるだけ。焦らなくていいの」
そう言ってくれた母の言葉に、ほんの少しだけ救われた。
でも、学校の友達には絶対に言えない。制服を着る朝、タンスの奥に隠したその“もの”を見つめるたびに、沙希は胸の奥がきゅっと苦しくなった。
「私って、普通じゃないのかな……」
* * *
ある日、クラスメイトの夏海が、ふとした拍子にこんなことを言った。
「沙希って、なんかちゃんとしてるよね。私、夜とか全然寝つけなくてさ、子どもみたいで恥ずかしいんだよね」
沙希は、心が少しだけ揺れた。
“子どもみたいで恥ずかしい”――そんなふうに思ってるのは、自分だけじゃないのかもしれない。そう思えた瞬間、ほんの少し、胸の奥の結び目が緩んだ気がした。
第二章 見つかったもの、隠せないもの
「体育のあと、着替えるときって、やっぱり緊張するよね」
放課後の部活前、夏海がそうつぶやいた。バスケ部の更衣室には、汗のにおいと女子たちの笑い声が渦巻いている。沙希は、その空間の端っこで、ひっそりとTシャツの裾を引き下ろしていた。
今日は、厚手の吸収パッドを入れた生理用のショーツを使っていた。日中に失敗したことはないけれど、「念のため」という母の言葉に逆らえなかった。
(誰にも見られなければいい。バレなければ……普通でいられる)
そう思っていた矢先だった。
「沙希、それって……あ、ごめん! 見ちゃった!」
声の主は、夏海だった。
動きかけたTシャツのすき間から、ほんの一瞬だけ見えたショーツの中の大きなパッドのシルエットには違和感を隠せない。思わず沙希は、体を反射的に後ろへ向けた。全身がかっと熱くなる。
「ち、ちが……っ、これ、生理用の……!」
必死に取り繕うけれど、声が震えていた。夏海は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに笑顔を向けた。
「ううん、大丈夫。変な意味じゃないよ。誰だって、そういうことあるしさ」
その言葉が、かえって沙希の胸をぎゅっと締めつけた。優しさが、痛かった。
「……笑わないの?」
「笑うわけないじゃん。ねぇ、沙希ってさ、いつもちゃんとしてるように見えるけど……そうじゃない部分もあるんだなって思って、ちょっとホッとした」
(ホッとした……?)
思いもよらない言葉に、沙希はまばたきをした。いつも「普通」に見せることに必死だった。でも、そんな自分の“ズレ”に気づいて、安心したと言ってくれる友達がいた。
* * *
その夜、沙希はテープのおむつを履きながら布団の中で、ふと思った。
これが「安心」なんだろうか。誰かに受け入れられることの温かさが、皮膚の下までじんわりと染みていく気がした。実は夏海に見られてしまった時、ショーツの中のパッドはすでにおもらしで少し膨らんでいた。そのことを思い出し、子どもっぽいところも受け入れてもらえたような気がして、なんだか心の奥が温かいようなくすぐったいような気持ちで自然と体が寝返りをうつ。
かさかさ、と静かな音が布団の中から聞こえてくる。いつもは「イヤな音」だったのに、今夜はどこか心地よく聞こえた。
少しだけ、眠るのが怖くなくなった。
第三章 やさしい視線
「……やっぱり、ちょっとだけ、恥ずかしいよね」
公園のベンチに並んで座っていた夕暮れ時、沙希はぽつりとつぶやいた。
制服のスカートの下には、今日も、例の“もの”がある。外では意識しないようにしていても、こうして座っていると、微かな違和感がどうしても気になってしまう。
「何が?」と夏海が聞き返す。
「……その、私……おむつしてるって思うと……やっぱり、変なのかなって……」
少し間を置いて、夏海は小さく笑った。
「変じゃないよ。むしろ、可愛いと思うけど」
「――っ!」
鼓膜の奥が跳ねた。
「か、かわ……?」
「うん。なんていうか、沙希って、いつも人に見せないところがちゃんとしてるのに、それでもちょっとだけ不器用だったり、自分のことちゃんと大切にしてたり……そういうのって、守ってあげたくなるっていうかさ」
夏海の声は、冗談めかしているのに、どこか本気だった。
沙希は、俯いたまま、心臓の音がうるさいのをごまかそうとした。
「そんな……おむつしてる人に“可愛い”なんて、変だよ……」
「そうかな? 私はそう思っただけ。……それって、悪いこと?」
否定できなかった。
それどころか――。
沙希の中で、少しずつ、何かが変わっていくのを感じていた。
* * *
夜、ベッドの上。
白い紙おむつを広げると、かさっとした音とともに、独特のやさしい香りが立ちのぼる。
少し前までは、この音が大嫌いだった。自分が“子ども”に戻ってしまうようで、情けなさに押しつぶされそうだった。
でも今は、少し違う。
この音を聞くと、夏海の声がよみがえる。
「可愛いと思うけど」
その言葉が、体の奥のどこかに、そっと触れてくるような気がして――
沙希は、無意識におむつをあてながら、ほんの少しだけ、頬を染めた。
(恥ずかしい。でも、なんか、変な気持ち……)
恥ずかしいのに、どこか落ち着く。
それは、子ども扱いされることじゃない。誰かに「そのままでいい」と思われた、心地よい肯定感だった。
「……おかしいな、私」
そうつぶやいた声が、布団の中でやさしく揺れた。